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アンチェルの生涯:修業時代(1926-1939)

アンチェルはプラハ音楽院で「微分音の父」であるアロイス・ハーバに作曲を師事した。学生時代の作品〈四分音ピアノのための組曲(1928)〉、〈大オーケストラのためのシンフォニエッタ(1930)〉はいずれも四分音で書かれたものである。指揮専攻でなくともチェコフィルのリハーサルを定期的に見学する機会はあり、ターリヒや海外の優秀な指揮者の仕事ぶりに触れることができた。夏休みになるとプラハと故郷トゥカピで学生オケや合唱団の指揮をしていた。このほか室内楽、ヴァイオリン、パーカッションも学んでいる。

大指揮者との出会い

ワルターとの出会い

あるときブルーノ・ワルターがチェコフィルに客演し、マーラーの交響曲第2番を演奏した。ワルターの眼にかなう副指揮者が見つからず、ついには音楽院の学生まで駆り出される騒ぎになったが、そのなかでアンチェルがワルターの満足を得ることができた。「君は指揮者になるべきだ」高名な彼の一言が、アンチェルを指揮者の道へと後押ししたことは想像に難くない。このときがチェコフィルとの初めての出会いであった(その後1930年に自らの卒業作品〈大オーケストラのためのシンフォニエッタ〉をチェコフィル相手に指揮している。四分音で書かれたこの作品は難しく、成功とはいえなかったが、批評家フランティシェク・バルトシュは「非常に前途有望で、指揮者としての成功を予感させる」とアンチェルを高く評価した())。

シェルヘンのアシスタントとして

卒業後アンチェルはシェルヘンのアシスタントとしてハーバのオペラ〈母〉の世界初演にたずさわる機会を得た。7か月の準備期間を経てオペラは成功をおさめ、ハーバとシェルヘンはアンチェルに感謝を示した。シェルヘンは同時代の作曲家を意欲的に取り上げており、1933年の「現代音楽の15年」というシンポジウムにアンチェルを招待している。

プラハ解放劇場の指揮者に

シェルヘンとの仕事を終えてプラハに戻ったアンチェルに嬉しい出来事が続いた。同級生だったヤロスラフ・イェジェクの誘いでプラハ解放劇場の伴奏指揮者を務めることになったのである。それからまもなくヴァリ・ヴィゴヴァという女性と結婚する。1931年、アンチェル23歳のことであった。この女性に関する記述は見当たらないが、アウシュヴィッツで命を落とすまで13年、まさにアンチェルの修業時代を支えた女性ということになる。

社会的風刺とジャズに彩られたプラハ解放劇場は、チェコの劇場史のなかでも独特のものであった。イェジェクが作曲し、ボシュコヴェツとウェリフという二枚看板が演じ、アンチェルが指揮を執ったこのアンサンブルはアヴァンギャルド集団として知られていた。歌詞には政治的な意味がこめられており、アンチェルいわく、ナチスの危険も予測していたかのようだったという。それゆえファシズムや独裁政治、人間への抑圧に反対する歌が歌われた(SU5810はプラハ解放劇場の記録である。TAH160でも断片的にだがその頃の録音を聴くことができる)。団員たちと一丸になっての創作活動はアンチェルにとって楽しいものだった。

しかし1932年、仲の良かった妹・ハンナが亡くなっている()。理由に関する記述は見当たらないが、音楽院に進んでもなおアンサンブルを楽しんだ相方である。アンチェルは悲しみに暮れたことだろう。

新天地を求めて

アンチェルはオーケストラかオペラハウスで常任指揮者になることを望んでいたが、当時のチェコスロヴァキアでこのような地位を得るのは至難の業であった。アンチェルは地道な活動を続けた。

ターリヒのマスタークラス受講

1933年から34年にかけてターリヒのマスタークラスを受講している。ターリヒというのは、第一次大戦後チェコスロヴァキアが独立し、チェコフィルが正真正銘の「国のオーケストラ」として新たな一歩を踏み出した直後に首席指揮者となった人物である。彼が務めた20数年間がチェコフィルの第一次黄金期といわれている(のちに第二次黄金期を築くのがアンチェルである)。アンチェルはそのターリヒに才能を認められ、1935年から37年にかけて5回チェコフィルを指揮する機会を与えられた。初登場の折に演奏されたプロコフィエフの交響曲第3番は、プラハ放送交響楽団との初演成功を受けてのものであった(アンチェルは聴衆の反応をプロコフィエフに知らせてもいる())。

プラハ放送局の音響係に

幸いプラハ放送局で音響係の仕事に就くことができた。放送局所属のプラハ放送交響楽団にはすでに常任指揮者がいたが、替わって時々指揮をする機会があったのである。

現代音楽祭への出演

手を差し伸べる先輩音楽家もいた。前述したシェルヘンである。彼の招きを受けて参加したシンポジウム「現代音楽の15年」では、ベルクの〈ピアノ、ヴァイオリン、13管楽器のための室内協奏曲〉を演奏した(このときバルトークが自作のピアノ協奏曲を弾いた)。1932年から1937年には国際現代音楽祭(International society for Contemporary Music)でシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの初演を行ったり、ヤナーチェクやストラヴィンスキーの作品を取り上げたりした(1932年の第10回ウィーン大会、1933年の第11回アムステルダム大会、1935年の第13回プラハ大会、1936年の第15回バルセロナ大会、1937年の第16回パリ大会に出席している())。

こうしてヨーロッパ各地で客演を重ねるうちに、現代音楽の紹介者として徐々に注目を集めるようになった。

だがナチス政権が誕生したのが1933年、ナチスがチェコを占領するのが1939年のことである。不穏な動きを背に感じながら、アンチェルは指揮者としての礎石を築いていたのである。

References

  1. Kadrec,Petr. Liner notes for Karel Ancerl:My Country. SUPRAPHON SU7015,p.11
  2. Tremine,Rene. Liner notes for Karel Ancerl Edition vol.1. TAHRA TAH117,p.7
  3. Nice David. "ProkovievーA Biography:From Russia to the West 1891-1935" (Yale University Press,2003),p.332.
  4. Tremine,Rene. Liner notes for K.Ancerl et le Concertgebow D'Amsterdam. TAHRA TAH124-125,p.11.

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2008年4月11日公開、2008年12月12日更新
高橋 綾(ayat01 @ infoseek.jp)
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