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アンチェルの生涯:テレジーンからアウシュヴィッツへ(1939-1945)

ナチ政権の誕生

ナチ政権が樹立したのは1933年1月のことである。4月に発布された〈職業官吏再建法〉は公職に就いていたユダヤ人被雇用者の解雇を定めるもので、これにより音楽学校、歌劇場や劇場、オーケストラなどの公立音楽施設に雇われていたユダヤ人たちも一挙に職を失ってしまった。第三帝国ではベートーヴェンが英雄的象徴として担ぎ出され、ヒトラーと同郷のブルックナーが崇拝される一方、アンチェルが好んで取り上げたシェーンベルクやウェーベルンの無調音楽はドイツ的なものを破壊するという理由で弾圧されていた。亡命する音楽家もいたが、やがて事態は好転するだろうという楽観的な見方もあり、息をひそめてなりゆきを見守る人がほとんどであった。

ナチスドイツは1936年のベルリンオリンピックの成功を待って、隣国を次々に侵略した。やがて第二次世界大戦に突入すると、1941年までにヨーロッパの大部分がナチスの支配下に置かれ、それらの国ではナチスの指示に従ってユダヤ人迫害が進められた。

アンチェルはユダヤ人?

1935年に制定された〈ニュルンベルク人種法〉によれば、アーリア人とユダヤ人の雑婚家系の場合、祖父母4人ともユダヤ人であれば「純ユダヤ人」、3人であれば「4分の3ユダヤ人」、2人であれば「半ユダヤ人」、1人だけであれば「4分の1ユダヤ人」となり、「4分の1ユダヤ人」のみアーリア人扱いとなるが、ごく例外的に「半ユダヤ人」も同様の保護を受ける場合があった。これは残りのアーリア人の血統を重んじたためである。アンチェルの場合祖父母の出自まではっきりしないが、父親がユダヤ人である上母親もアーリア人ではない(スロヴァキア人である)ため「ユダヤ人」として扱われた。しかもアンチェルはナチスが敵対視していた現代音楽の紹介者であり、酌量の余地はなかったと思われる。

チェコスロヴァキアの占領

チェコスロヴァキアは1939年にナチスに併合された。折悪しくも、1918年に成立したチェコスロヴァキアは世界で初めてユダヤ人を一つの民族として認める国家であった。彼らを取り巻く環境は一転、多くのユダヤ人が職を失った。もちろん音楽家も例外ではなく、アンチェルは1939年プラハ放送局での仕事を解雇されてしまった。締め出された音楽家のなかには自宅アパートなどで内輪の演奏会を開く者もあったが、アンチェルは妻とともに南ボヘミアに戻り、生きるために木こりなどの力仕事につくほかなかった。しかしそれも束の間、1942年11月12日ゲシュタポに発見され、両親、妻ともにテレジーン収容所に送られた()。

テレジーン収容所とは

テレジーン収容所はアウシュヴィッツなどの絶滅収容所とは異なり、捕らえたユダヤ人を絶滅収容所に送り込むまでのしばらくの間とどめておくための「通過収容所」として機能していた。ここに送られてきたユダヤ人は14万人近く、そのうち33,000人以上がここで亡くなり、およそ87, 000人がここから他の絶滅収容所、多くの場合はアウシュヴィッツに送られて殺された。テレジーンから生還できたのは約17,000人にすぎなかった()。

テレジーンに送り込まれてきた人々をみると、ユダヤ人のなかでも知識階級の人々や高い勲位を受けた人々が多く、第一線で活躍する音楽家も数多く含まれていた。衣類、毛布、食べ物など身のまわりのごく限られたもの以外の持ち込みは禁じられていたが、彼らは楽器を分解して毛布にくるみ、接着剤やクランプとともに運び込んだ。ナチスは彼らから楽器を奪いはしなかった。「ユダヤ人を虐殺しているのではないか」と国際的な非難にさらされていたナチスにとって、彼らは言い逃れの手段として利用価値があったのである。ナチスは彼らに文化活動を積極的に行うよう命じ、「ユダヤ人のための町 Modell Ghetto」をねつ造しようとした。そこで当局の監視のもと、ユダヤ人の余暇活動のための「自主組織 Freizeitgestalgung」が設けられた。さらにその下には演劇、カバレット、音楽、スポーツなどの各部門が作られるという手の込んだものであった。驚くべきことに、この組織を運営する演奏家、講師、管理者として雇われた相当数の者が労働さえ免れている。

とはいえ6,000人規模の町に6万人が押し込められ、家族がまとまって生活できるような状況ではなかったことに変わりはない。彼らは男、女、子供、老人、病人に分けられ、バラックを割り当てられていた。人々が食料不足にあえぎ、伝染病が蔓延するさなか、1943年2月28日にアンチェルの最初の子供イワンが誕生している()。

音楽を慰めとして

彼らはナチのもくろみを逆手に取るかのように、音楽活動にいそしんだ。残されたポスターを見ると、オペラ、室内楽からジャズバンドまで実にさまざまな音楽が繰り広げられていたことがわかる。「現代音楽スタジオ」では当時弾圧されていたはずのツェムリンスキー、シェーンベルク、ハーバらの作品が堂々と演奏されていた。ヴィクトル・ウルマン、ギデオン・クライン、パヴェル・ハースといった作曲家の手によって新しい作品が生み出されてもいた。

彼らは日中の労働を終えたあと、夜を徹して練習に励むこともあった。それは、過酷な現実から抜け出し、人間としての誇りを取り戻すことのできる束の間のひとときだった。彼らは人々に喜びと楽しみを与えることができるようにと演奏にあたり、その演奏は聴衆からも高い支持を受けた。とくにスメタナの〈売られた花嫁〉は圧倒的な成功をおさめ、35回も上演されている()。彼らと聴衆はいわば一心同体となり、活動の裾野を広げていった。

アンチェルの音楽活動

アンチェルは先述した「自主組織」の一員ではなく、炊事助手として働いていたが、その合間を縫って活動に合流した。室内楽の演奏会のリハーサルに立ち会ってアドバイスをすることもあれば、自らがヴィオラ奏者として出演することもあった(このときの演奏会は「室内楽の夕べ」と題して行われ、シューベルトの弦楽五重奏曲作品163と、ブラームスの弦楽六重奏曲作品36が演奏された)。ハンス・クラサの書いた子供のためのオペラ「ブルンディバール」の初演や()「チェコの現代音楽」というテーマでの講演なども()精力的にこなした。

「自主組織」の発足により楽器も多少は調達できるようになり、アンチェルはさらに弦楽オーケストラを結成しようと思い立った。第一ヴァイオリンが16人、第二ヴァイオリンが12人、ヴィオラが8人、チェロが6人、コントラバスが1人という小規模なものではあったが(アンチェルは何人かのチェリストにコントラバスのパートを弾いてもらうよう頼んでいた)、このオーケストラには当時チェコフィルの副コンサートマスターだったエゴン・レデチにアムステルダム・コンセルトヘボウのメンバーなど、ヨーロッパ各地の第一線の演奏家が集まって来ていた。アンチェルは2つのプログラムを用意した。一つはヘンデルの〈合奏協奏曲へ長調〉、〈アイネ・クライネ・ナハトムジーク〉、バッハの〈ヴァイオリン協奏曲ホ長調〉というもので、もう一つはオールチェコ音楽プログラムであった(曲目をみると、スークの〈古いチェココラールによる瞑想〉、ドヴォルザークの〈弦楽セレナーデ〉、そしてハースがテレジンで書いた新作〈弦楽のためのスタディ〉とある())。前者が10回以上演奏されたのに対し、後者は2回であったが、祖国の作品を演奏することで彼らが得ていたものははかりしれない。なおこれほどレパートリーが限られているのは、アンチェルも含めた多くのメンバーが労働に駆り出されていたためである。上記のプログラム以外に、1944年4月30日にはベートーヴェンの「歓喜の歌」が演奏されている() 。アンチェルは1969年「カレル・アンチェルとは誰?」というチェコで放送されたドキュメンタリー(SU7015)のなかで、これらの音楽を手がけたことが生きる力となったと話しており、心を打たれる。

当時のアンチェル評

残された批評から、チェコフィル就任以前のアンチェルの音楽の一端をみることができる(これを書いたヴィクトル・ウルマンは「自主組織」の批評家として雇われていた。収容所内の催しに批評家さえ存在したというわけである)。

「カレル・アンチェルは手腕のある指揮者で、すばらしいノウハウをもっている。英雄的な働きによって皆を結束させ、このような音楽の響きを作り上げたことは、彼がいかにすぐれた特性と超人的な忍耐力をもっているかを証明するものである。アンチェルというとターリヒとヘルマン・シェルヘンを思い出すが、彼は後者と同様やはり現代音楽のパイオニアであった。パヴェル・ハースの〈弦楽のためのスタディ〉は実に美しくすばらしい初演であった。[……]要するに、作曲者が求めるものを知り、同時にそれを実現することのできる音楽家の手がここにはあるということだ。オーケストラの仕事は、コントラバスが不足していたことをのぞいては、一貫して申し分のないものだった。ハースとアンチェルとオーケストラは大絶賛を浴びた。()」

このコンサートは1944年9月13日に行われた。この年の6月22日に国際赤十字の視察団が訪れたが、彼らは「総統はユダヤ人に一つの町を贈った」というナチスの言い分を信じて引き揚げて行った(同名の宣伝映画も作られ、アンチェルがこの作品を指揮する様子も収められている)。ナチの思惑通りに事が進み、もはや用のなくなったユダヤ人は一斉にアウシュヴィッツに送られようとしていた。このコンサートは多くの音楽家の最後の輝きだったのである。そして、アンチェルの両親や妻や幼い息子が、彼の指揮姿を見る最後の機会でもあったと思われる。

アウシュヴィッツへ

わずかその10日後にあたる9月23日から10月28日までの間に20,000人以上のユダヤ人がアウシュヴィッツに移送された(10)。10月16日、アンチェルを乗せた貨車にはヴィクトル・ウルマン、ハンス・クラサ、エゴン・レデチ、ベルナルド・カフといった音楽家も含まれていた(アンチェル以外はガス室に送られた)。

アンチェルもアウシュヴィッツのプラットホームで、かのメンゲレ博士の「裁き」を受けている。同じくアウシュヴィッツを生き延びたカレル・ベルマン(SU3674でアンチェルと共演している)は、自分の前でメンゲレに職業を訊かれた友人が「singer」と答えてガス室行きを宣告されたのを見て、思いつきで「worker」と答えたという(11)。アンチェルはベルナルド・カフをかばおうとしたがうまくいかなかったと明かしている(12)。まさにその10月17日と10月30日(これがテレジーンからアウシュヴィッツへの最後の移送だった)にアンチェルの家族は皆亡くなっている(13)。

アウシュヴィッツにも音楽がなかったわけではない。人々を労働に送り出す際、あるいはガス室に連れて行く際、収容者を使って場違いな楽しい音楽を演奏させていたのである。ナチスの将校たちのくつろぎの時間を演出するオーケストラもあった。アンチェルはアウシュヴィッツのことをほとんど語っていないが、ここで音楽にたずさわっていた様子はない。アウシュヴィッツで助かる唯一の方法は労働収容所に送られることだったといわれる。アンチェルはフリードランド労働収容所の飛行機工場で働くことになり(14)(15)、一命を取りとめたものと思われる。だが逃走を試みて捕まり、死刑を宣告された。1945年5月、赤軍によって救出される直前のことだった。

〈弦楽のためのスタディ〉を書いたパヴェル・ハースもアウシュヴィッツで命を落とした。戦後アンチェルはハースの家族の求めに応じ、スコアが消失したこの作品の再構成に尽力したが、二度と演奏することはできなかった。

テレジーンで音楽家たちは皆、いつかこの悪い夢から覚めて自分の家に戻り、普通の生活を再び始めることを望んでいた。解放後のことを胸に描いての音楽活動でもあった。戦後アンチェルを支えたのはそうした音楽家たちの思いだったのではないだろうか。

References

  1. Holecek,Jaroslav. Liner notes for Smetana,Ma Vlast.Supraphon SU 3661,pp.5-6.
  2. Karas,Josa. "Music in Terezin 1941-1945"(New York:Beaufort Books Publishers,1981),p.11.
  3. Rene,Tremine. Liner notes for Karel Ancerl Edition vol.1. TAHRA TAH117,p.8.
  4. Karas,Josa. "Music in Terezin 1941-1945"(New York:Beaufort Books Publishers,1981),p.24.
  5. Shapiro,Eda & Kardonne,Rick. "Victor Kugler:The Man Who Hid Anne Frank"(New York:Gefen Publishing House,2008),p.95.
  6. Kundera,Milan. "Le Masque de la Barbarie:Le Gettho de Theresienstadt 1941-1945"(Ville de Lyon,1998),pp.168-169.
  7. Karas,Joza. "Music in Terezin 1941-1945"(New York:Beaufort Books Publishers,1981),p.65.
  8. Ross,Alex. "The Rest Is Noise:Lisening to the Twentieth Century"(New York:Picador,2008),p.363.
  9. Karas,Joza. "Music in Terezin 1941-1945"(New York:Beaufort Books Publishers,1981),pp.66-67.
  10. "Music in Terezin 1941-1945"(New York:Beaufort Books Publishers,1981),p.164.
  11. ibid.,pp.164-165.
  12. ibid.,p.165.
  13. Tremine,Rene. Liner notes for Karel Ancerl Edition vol.1. TAHRA TAH117,p.8.
  14. Kadrec,Petr. Liner notes for Karel Ancerl:My Country. SUPRAPHON SU7015,p.11
  15. Tremine,Rene. Liner notes for Karel Ancerl Edition vol.1. TAHRA TAH117, p.8.

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2008年4月11日公開、2008年12月12日更新
高橋 綾(ayat01 @ infoseek.jp)
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