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アンチェルの生涯:チェコフィル時代(1945-1968)

再び楽壇へ

アンチェルは重い糖尿病に慢性気管支炎、慢性肝炎を患いながらもプラハに戻った。フランスのTAHRAというレーベルから出されたCDのなかに、アンチェルが晩年(1972年)自分の生涯を語ったものがある。この悪夢のことにはほとんど触れていないが、「人間の尊厳が完全に破壊され、その生命に何の価値も見出されない恐怖を克服するには時間がかかった()」という。

アンチェルは「5月5日歌劇場」の指揮者として楽壇に復帰することになった。戦後プラハではオペラハウスが使われずに置かれていたため、若い音楽家が新しいグループを作り、作品を上演することにしたのである。そこは32年前両親に連れられて〈カルメン〉を観た場所であった。アンチェルはそこで〈スペードの女王〉、〈売られた花嫁〉、〈ドン・ジョヴァンニ〉、〈ホフマン物語〉、そして〈カルメン〉など一般的なオペラのレパートリーを手がけた()。

その頃プラハでは悲しみを乗り越えようという気運がみなぎっていた。1945年チェコフィルが国営化され、1946年には記念すべき第1回プラハの春音楽祭が開催されている。

アンチェルが再婚したのもこの時期である。妹と同じハンナという名をもち、ピアノを弾くこともでき、しかも弁護士を目指していたという女性である。テレジーンで知り合いになったハンナに再会し、彼女も家族を失ったことを知り、結婚を決めた。戦争の影響で弁護士への志はまだ半ばであったが、彼女は主婦としてアンチェルを支える道を選んだ。その後2人の男の子にも恵まれた。

チェコフィルの音楽監督に

アンチェルは「5月5日歌劇場」での仕事を3シーズン務めたのち1947年プラハ放送交響楽団の常任指揮者となり(CACD 5.00683 Fはこの時期の録音として貴重である)、さらにその3年後チェコフィルの指揮者に就任することになった。アンチェル42歳のことであるが、大きな困難を抱えての船出となった。前任者クーベリックは年配のメンバーを半数近く解雇、新しいメンバーを採用し(こうした改革の背景には戦争で多くの優秀な楽員を失ったことがある)、アンチェルいわく「新生チェコフィル」が誕生したばかりであったが、1948年の共産主義化にともなって彼が亡命してから2年もの間指揮者なしの状態となり、改革も中途半端のまま放り出されていたのである。しかも、オイストラフが「次の指揮者はアンチェルがいい」と言ったのを受け、大臣として教育・科学・芸術分野に圧倒的な権力をもつズデニェク・ネジェドリーが、楽員たちへの相談なく独断でアンチェルを任命したことで反感が広がり、アンチェルはそれを解いて彼らと信頼関係を築くのに数年を要してしまった()。

アンチェルはひたむきに音楽に取り組むことによって、苦境を乗り越えた。

アンチェルは再び楽員の入れ替えを進めるとともに、パート練習を強化するなどリハーサルの方法も一変させた。〈春の祭典〉などストラヴィンスキーの作品に取り組む際マルケヴィッチの教えを請うなど、人的投資も惜しまなかった。アンチェルが心がけていたのは、美しい音色で、それぞれの作品のもつ様式感を出せるようにということだった。そのレパートリーはドヴォルザークやスメタナといったチェコの作曲家にとどまらず、古典派から近現代の作品まで実に幅広い。また、同時代のチェコスロヴァキアの作品(カベラーチ、ドビアーシュ、スラヴィツキー、パウエルなど)を紹介することにも心を砕いた。1956年にプラハで出版された「チェコフィルハーモニック」という小冊子では「彼の音楽は作曲家に対する深い尊敬が土台となっている。彼は非常にスコアに忠実である()」とアンチェルのことが紹介されている。

演奏旅行へ

1955年演奏旅行で西ドイツに赴いたときの批評をみると、就任5年目にはアンチェルの改革が功を奏していたことがうかがえる。

「チェコフィルのそれぞれの演奏者が、クラシック音楽の伝統のなかで培われた純粋な音楽家精神を持っている。すべての演奏家が音楽の真の精神を理解しているだけでなく、それを伝えることができる。目を見張るような美への感覚と音の純粋さがある。それゆえ正確な統制のもと、一体感を持ってアンサンブルが立ち現れて来る。作品の概念を伝えるにはそれぞれの楽器の個性を生かしながらも調和させる必要があるが、その両方のさじ加減がうまくいっている。(Contemporanul, Buchrest: 1955年9月21日)()」

「オーケストラ全体の至芸により、〈新世界〉は最上の演奏となった。120人の演奏家すべてが傑出した芸術家である。ヴァイオリンの実に見事な音色、木管と金管の柔らかな音色、それらの響きの純粋さと色彩感を味わうことができる。(Frankfurter Neue Press: 1955年10月26日)()」

「甘さの過剰な音色や見せかけだけの魅力を味わうことになると思っていたら、大きな誤りだった。そうした種のものはいっさい存在しなかった。(Suddeutsche Zeitung, Munuch: 1955年10月31日)()」

この公演を皮切りにヨーロッパ各地を訪れ(アンチェルいわくアルバニア以外の国には行ったという)、1959年にはニュージーランド、オーストラリア、日本、インド、中国、ソ連を回るツアーを行った。これは実に3ヶ月に及ぶものであったが、その名を広く海外に知らしめることになり、プラハで録音されたレコードが世界中で売れるようになった(TAH405-406にはニュージーランド公演の記録が含まれている)。

唯一の日本公演

1958年の日本とチェコスロヴァキアの国交回復を受け、1959年10月アンチェルとチェコフィルが文化使節として来日した。アンチェルにとっては唯一の来日である。このときカラヤン=ウィーンフィルが偶然鉢合わせとなり話題を集めたが、アンチェルはカラヤンを上回るほどの評価を得た。

「圧倒するような音、驚愕するような音はなにもひびかない。プラーハのファイト教会のファザードのように、きらびやかな飾りのない清潔な音、だがいぶし銀のメダルのように地味な、底光りのする音である。われわれはその地味な表現をとおして、もはや現代ではヨーロッパから失われつつある人間的で高貴な古いヨーロッパの最良の伝統が、ここに格調正しくたもたれているのを感じとることができる。()」

「どの楽章をとってみても、作曲者の精神が生き生きと躍動して現れる様は、指揮者カレル・アンチェルの並々ならぬ手腕を思わせたものだが、緊迫した音楽の時間と痛々しいまでの沈黙の時の存在を、生の音楽からこれほどまでに切実に感得させられたことも少ない。()」

アンチェルとチェコフィルは来日の折、伊勢湾台風で死者5000人を出した被災地に義援金100万円(タクシーの初乗料金が50円だった時代である)を贈ってもいる。

「鉄のカーテン」を越えて

アンチェルはチェコフィルでの活動のほかに、1948年よりプラハ音楽アカデミーで後進の指導にもあたっていた(彼の薫陶を受けた指揮者にはズデニェク・コシュラー、マルティン・トゥルノフスキー、イルジー・コウトらがいる)。客演も数知れず、古巣であるプラハ響はもとよりウィーン響、ケルン響、ベルリンフィル、スイスロマンド響に招かれるなど、「鉄のカーテン」を飛び越えての活躍ぶりであった。とくにアムステルダム・コンセルトヘボウとは、メンゲルベルクの好意もあり、1966年から1970年までの間に15回も共演している(10)。

チェコスロヴァキアは1948年共産政権となっていたが、このような西欧諸国への演奏旅行が可能となったのは、スターリンの死後弾圧が緩んだためである。冷戦構造のなかで、彼らは東西を結ぶ架け橋としての役目を果たした。

プラハの春、そしてチェコ事件

第二次世界大戦末期、ナチスドイツに占領されていた領土のほとんどがソ連軍によって解放されたが、大戦終了前からチェコスロヴァキアは戦後ソ連の強い影響下に置かれることが決定づけられていた。このような歴史的な流れから、戦後のチェコスロヴァキアでは共産党が大きな勢力を持つことになったのである。アンチェルがショスタコーヴィチ、プロコフィエフなどのロシア音楽を得意としていたのは、こうした政治的な動きとも無関係ではない。共産主義初期の頃はスターリンの文化政策により、作曲家たちは広く大衆に受け入れられるような楽天主義的な作品を書くよう要請されていたが(11)(当時ハーバの微分音のクラスが廃止されている)、1960年代に入り「プラハの春」と呼ばれる自由化運動が起こると、徐々に多様な作品が生み出されるようになった。アンチェルはそれらの作品を紹介するとともに、マルティヌーなどの亡命作曲家の作品も、プラハから声援を送るかのように積極的に取り上げた。

アンチェルはついにアメリカに進出し、1967年にはモントリオール万国博覧会で〈我が祖国〉を演奏した(TAH159)。演奏は大成功をおさめ、トロント交響楽団が客演を依頼してきた。さらにこの客演が1969年からの音楽監督就任要請へと発展することになった。1968年1月の契約をした時点ではトロントとプラハでの仕事を兼任する予定だったが、同年8月21日、アメリカ・タングルウッド音楽祭での客演中(sacd-220/1)に悲報が届いた。チェコの自由化を阻むためにソヴィエト軍がプラハに侵攻したのである。   

この年の4月にアンチェルが60歳を迎えたのを記念して、プラハ響が卒業作品〈大オーケストラのためのシンフォニエッタ〉を38年ぶりに演奏している(12)。このほか還暦を祝っての録音もあるほど(CR0152)、アンチェルとチェコ音楽界との絆は深まっていた。だがこの知らせを受けたアンチェルは即時に祖国への帰国を断念、トロントへの亡命を決意した。この時期の書簡には次のように書かれている。

「私は1935年から1945年の追体験はしたくありませんし、またそんなパワーもありません。私には当時も今も、そんなに違いはないように思えるのです。(13)」

チェコフィルとのコンサートは766回に達していた(14)。のちにアンチェルは「幸せな結婚生活のようだった。18年間相思相愛だったのだから(15)」と振り返っている。チェコフィルを建て直し、楽員たちと音楽を作り上げていくことがかけがえのない喜びだったという。

References

  1. Ancerl,Karel. Interview by Tom Gregor. 7 October,1972. Produced by TAHRA,France. TAH160,1996,p.50.
  2. Rene,Tremine. Liner notes for Karel Ancerl Edition vol.1. TAHRA TAH117,p.9.
  3. Lambert,Patrick. Liner notes for Great Conductors of the 20th Century vol.1 Karel Ancerl. IMG Artists 7243 5 75091 2 1,p.9.
  4. "The Czech Philharmonic"(Prague:Orbis,1956)p.9.
  5. ibid,.p.11.
  6. ibid,.p.11.
  7. ibid,.p.12.
  8. 北沢方邦「今月の演奏会批評」『音楽芸術』1959年12月号、140頁。
  9. 海老澤敏「チェコフィル・ウィーンフィル評」『音楽芸術』1959年12月、154頁。
  10. Rene,Tremine. Liner notes for K.Ancerl et le Concertgebow D'Amsterdam. TAHRA TAH124-125,p.10.
  11. Lambert,Patrick. Liner notes for Great Conductors of the 20th Century vol.1 Karel Ancerl. IMG Artists 7243 5 75091 2 1,p.10.
  12. Rene,Tremine. Liner notes for K.Ancerl et le Concertgebow D'Amsterdam. TAHRA TAH124-125,p.18.
  13. Liner notes for Great Conductors of the 20th Century vol.1 Karel Ancerl. IMG Artists 7243 5 75091 2 1,p.13.
  14. Holecek,Jaroslav. Liner notes for Smetana,Ma Vlast. Supraphon SU 3661,p.7.
  15. Lambert,Patrick. Liner notes for Great Conductors of the 20th Century vol.1 Karel Ancerl. IMG Artists 7243 5 75091 2 1,p.9.

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2008年4月11日公開、2018年2月4日更新
高橋 綾(ayat01 @ infoseek.jp)
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