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閑話コーナー1:アンチェルとの出会い

アンチェルの知名度はなぜここまで低いのだろう。生誕100年である今年、巷で話題になっているのは同い年のカラヤン、朝比奈ばかりである。

理由の一つは、チェコが旧共産圏だったためではないか。おそらく私たちの多くにとって、チェコはそれほどなじみのある国ではない。チェコ語という難関もある。

また、アンチェルは商業主義とも無縁だった。カラヤンは時代の寵児ともいうべき存在で、死後も日本の大手レーベルと取引してくれる夫人がいたが、アンチェルが晩年過ごしたトロントでは商業的な録音すらなされていなかった。故郷チェコで「国とチェコフィルを捨てた裏切り者」と見なされていたとすれば、死後歴史の表舞台から姿を消すことになっても不思議ではない。

だがもっとも大きな理由は、アンチェルが背負った悲劇にあるのかもしれない。アウシュヴィッツで両親も妻子も虐殺された指揮者の演奏など、積極的に聴けるだろうか。私も最初は、おどろおどろしい音楽や寂寥感に満ちた音楽を想像した。2004年の終わり、アンチェルのCDを初めて手にしたものの、リーフレットの写真に映った寂しげな表情を見たら聴くことができなかった。

曲はヤナーチェクの「シンフォニエッタ」だった。それとは別の「レコ芸特選」盤をさしていいとも思わずに二度聴いたが、三度目に心ひかれるものを感じた。反復聴取による効果と思ったが何のことはない、間違えてアンチェル盤をかけていたのだ。何の先入観も持たず、始めから「音楽」として聴けたことは幸運だったのかもしれない。

4歳からピアノを始め、バイエルもツェルニーも苦にしなかった私は、逆にバルトークやプロコフィエフなどに違和感を覚えるような子供だった。高校生になり、音楽学のレッスンに行くたび耳にする音源は、カルチャーショック以外の何ものでもなかった。斬新な響きに加えオケの音量の大きさ、作品の長さ。だが15年経って、「ハルサイ」「タラス・ブーリバ」など当時理解できなかった作品の魅力を知ることになった。アンチェルなら聴けるのである。引き締まった切れ味の良い演奏ながら、けっして鋭利ではない響き。ふとした瞬間に曲の断片が頭の中で鳴り響く。その部分を探してもう一度聴く。魔法にかかったかのようだった。

しかも想像とは違う、優しく気品のある音楽。なぜそんな音楽を生み出すことができたのだろう。アンチェルはいったいどんな人だったのだろう。

手始めに「ニューグローヴ音楽事典」を開き、参考文献を見ると、チェコ語のもの1冊のみ。CDも国内盤は極端に少なく、輸入盤に頼るしかない。廃盤も多い。だが、はちきれんばかりの期待を背負って届くCDの一枚一枚が素晴らしく、単なるお気に入りを超える大きな存在になった。こつこつと資料を集めていく喜びがそこにはあった。

何度もスコアを買いに走り、心の中でアンチェルの音楽を再現しながら眺めるうち、ピアノの楽譜を見ても同じように音楽が立ちのぼってくるようになった。本質的にはソロもオーケストラも変わらない。学生時代、作曲科と「お隣」の学科で楽曲分析に励んだおかげで、作曲出身のアンチェルがいかに深く楽譜を読んでいたか想像がつく。その大切さを改めて知り、弾くことはもちろん、教えることも俄然面白くなった。たくさんの種を蒔いておける先生でありたい。15年経って芽が出る場合もあるのだから。

やがて、多くの人々がテレジーン収容所で音楽に救いを見出していた事実、そしてそこで生み出した音楽を支えにアンチェルがその後の人生を生き抜いたという事実を知った。「アンネの日記」ばかりが有名だが、心の傷を抱えながらも「音楽とは優しくあたたかいものであるように」という思いを胸に生きた一人の指揮者がいたのだ。音楽療法や音楽心理学への興味から音楽学を専攻した私に、どんな癒しの音楽よりも雄弁に語りかけてくるものが待っていた。

1959年、カラヤンとアンチェルが同時に来日したとき、高い評価を得たのはアンチェルのほうだったという。その評判を目の当たりにすることも、生で演奏を聴くこともできなかった私が今、アンチェルが生き延びたことにただ感謝して音楽と向き合っている。


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2008年4月11日公開、2018年1月28日更新
高橋 綾(ayat01 @ infoseek.jp)
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